読書ができるかできないかは、私のそのときの心身の状態のバロメーターだ。無性に本を読みたいと思うときは、たいてい心身ともに状態が良いときだ。逆に、読みたいと思えないときや、読み始めても内容が入ってこないとき、ただ紙に印刷された字面を追っているだけのときは、なんだか今は調子が良くないなと思う。これは自分だけに起きる現象なのかと思ったら、どうやらそうではないらしい。SNSで同じようなことを感じている人がいることを知り、そっと胸を撫で下ろした。
もうひとつ読書で私を混乱させることがある。それは幼い頃にたくさん本を読んだという「実績」だ。小学生のときは毎日学校の図書室へ行き、なにかしらの本を借りて夢中になって読んだ記憶がある。人には「すごい子どもだね」などと言ってもらうことがあるが、当の本人にとっては日常であり当たり前のことだったので、まったくすごいことではないと思っている。むしろ、大人になった私を悩ませ混乱させるのだ。本を開いても読み進められないとき、なぜ小学生の頃は毎日読めていたのに、今は読めないときがあるんだろう・・・と落ち込む要因になる。自己肯定感が下がるのだ。逆に、今でも本が好きで、本を読みたいと思えるのは、あの頃の積み重ねがあるからだという自信になるときもある。人の心というのは本当に不思議なもので、「持ち主」である自分がいちばん自分の心をわかっていなかったりする。
ともあれ、本を嫌いになることはなく、むしろどんどん好きになっていく一方だ。最近では小学生の頃に夢中になって読みあさっていたミヒャエル・エンデやロアルド・ダールのワクワクする物語たちをまた読みたいという衝動にかられており、本棚の奥から引っ張り出したり、手元にないものは本屋さんに出向いて手に入れたりしている。もしかすると今は、過去の実績が自信になっているときなのかもしれない。きっとこれから先もずっと、私はこうやって過去の自分に振り回されるのだろう。そんな自分が心の底から嫌になるときもあれば、人間らしいと微笑ましく思うときもある。本当に感情が忙しい。これが人間の醍醐味ということなのか。そう思える今は、きっと心が元気なのだろう。
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